Contents
◎Movie Review
『Lead Belly - The Man Who Invented Rock & Roll』
◎Recommended Albums
Average White Band『AWB』, Ry Cooder 『Paradise and Lunch』, Bob Marley & The Wailers 『Live!』, Tom Petty & The Heartbreakers 『s/t』, Stuff 『Stuff』
◎PB’s Sound Impression
YAKIBEE……BOSE DS16F, Victor SX-DW7, LAB.GRUPPEN FP20000Q, CLASSIC PRO CP4100 etc.
構成◎山本 昇

Introduction
伊勢崎の“もんじゃ焼き屋”で聴く僕の70年代ベスト・アルバム
前回から半年ほどのご無沙汰となってしまいましたが、皆さんはお変わりありませんか。この冬は結構寒かったですけれど、僕は特に体調を崩すことなく元気に過ごして春を迎え、仕事のほうはラジオもテレビもイヴェントもいつもどおりに続けられています。去年を振り返れば、音楽フェス“LIVE MAGIC!”は10周年で一区切り。今年は次回に繋げるための小さなイヴェントを計画しています。来年からはフェスではなく、いわゆるコンサートの形式で復活させるつもりです。そして、今年も開催する音楽映画祭“Peter Barakan's Music Film Festival”(2025年9月12日~25日)の準備もぼちぼち始めています。ここで、ムックの紹介を一つさせていただくと、発売中の『音楽Bar読本』(ステレオサウンド)で巻頭インタヴューを受け、これまでに訪れた日本の音楽バーやジャズ喫茶、そして僕が理想とする音楽バーについて話しています。取材した場所は新宿の“rpm”という音楽バーでしたが、ここのサウンド・システムはすごくいい音でした。
さて、今日はなんと、群馬県伊勢崎市のもんじゃ屋さん“YAKIBEE(やきべえ)”にお邪魔しています。スピーカーは天井に埋め込みで、音響は一見普通の店舗と変わりなさそうに見えますが、実は細部にこだわっているのだとか。そのあたりは後半のコーナーで、店主の内藤輝幸さんにお話をうかがいます。
そして内容は前回に引き続き、僕の来日50周年のベスト・アルバムについてお話ししたいと思います。前回が1980年代の終わりから2020年代までだったので、今回はその前、つまり僕が日本に来た1974年から80年代にかけての10枚を選んでみました。収録時間の都合で、今回はその前半の5枚について、いつものように実際に音を聴きながらその魅力を語っていきますので、今日も最後までお付き合いください。

ムック『音楽BAR読本』(別冊ステレオサウンド)
Movie Review
12弦ギターを操る
“ソングスター”の生涯を描いた
音楽ドキュメンタリー
『ロックの礎を築いた男:レッド・ベリー
ビートルズとボブ・ディランの原点』

のちのアーティストにも多大な影響を与えたレッド・ベリー
また一つ、面白い音楽ドキュメンタリー映画が公開されます。『ロックの礎を築いた男:レッド・ベリー ビートルズとボブ・ディランの原点』(原題:Lead Belly - The Man Who Invented Rock & Roll)というもので、字幕監修を朝日順子さんと共に担当しました。レッド・ベリーというアメリカのミュージシャンが生まれたのは1888年、もしくは1889年という説もあります。19世紀に生まれて、亡くなったのは1949年です。つまり、ロックより前の時代を生きた人なんですね。生まれ育ったのはルイジアナ州シュリーヴポートのあたりです。彼が若かった頃はまだラジオもなければレコードも普及していませんが、少年時代から音楽演奏が上手で、特に12弦ギターを得意としていました。お酒も出るような人が集まるところでギターを弾きながら、いろんな歌を歌うわけですね。当時はまだマイクロフォンもないから、大きな声で。お客さんのリクエストには何から何まで全部応えなければならないから、“生きるジュークボックス”といった存在ですが、まぁ、あの時代の歌手はだいたいそんな感じで、“ソングスター”と呼ばれていました。レッド・ベリーも12~3歳くらいから人前で歌っていたらしく、その活動は20世紀の初頭から始まっていたんですね。
古くから活動している黒人のミュージシャンというとブルーズ・シンガーを連想するかもしれません。確かに、盲目のブルーズ・シンガー、ブラインド・レモン・ジェファスンとも交流があったレッド・ベリーはブルーズの感覚も持っていたはずですが、フォークを歌うし、センチメンタルなバラッドも歌いました。このように、ギターが弾けて歌える人は今も昔もモテるんです。女性がたくさん寄ってくる。でも、その中には彼氏がいる人もいたりして、嫉妬心や反感を買うこともしばしばで、時には喧嘩になることも。田舎のことだし、時代も時代だから、ナイフや銃を持っている人もいる。そんな人たちの攻撃から身を護るために自らも銃を持つ。ある日、テクサスでの喧嘩で人を殺めてしまい、逮捕されて刑務所行きになりました。みんな鎖に繋がれて道路工事などの労働をさせられる---いわゆるチェイン・ギャングと呼ばれた時代に服役した彼は、身体も大きくて筋肉隆々。彼が歌うと、なぜかみんな元気に働くそうなんですね。そういう意味でも人気者だったらしいレッド・ベリー。あるとき、テクサスの州知事がその刑務所を視察した際、レッド・ベリーは知事の歌を作って披露して見せたんです。その歌は、「もしあなたが俺で、俺があなたなら、朝目が覚めたらあなたを自由にする」という内容(笑)。模範囚でもあった彼はこの知事の恩赦も得て釈放され、シンガーの仕事に復帰します。しかし、この後もまた喧嘩沙汰を起こし、今度は悪名高いルイジアナのアンゴラ刑務所に送られました。ただ、ここで彼は運命的な出会いを果たします。
民族音学者であるジョンとアランのローマックス親子が歌を採集するためにこの刑務所を訪れました。1930年代、近代化を遂げるアメリカで、伝統的な音楽が衰退していくのを危惧したジョン・ローマックスは、アメリカ議会図書館に記録するためにいろんな歌を集めていたんですね。なぜ刑務所で? 長期にわたって隔離された生活をすることが多く、南部では黒人の服役者も多い。世間ではすでに歌われなくなり、消えていく運命にあるような歌が、刑務所にはまだ残っていると考え、あちこちの刑務所を回って録音していたんです。
やがて釈放されたレッド・ベリーはしばらく、ローマックス親子の収集活動を手伝うことになります。息子のアラン・ローマックスはレッド・ベリーをニュー・ヨークに連れ出して、コンサートをやらせるようになります。この当時、1940年代はフォーク・リヴァイヴァルもまだ本格的に始まる前ですが、ニュー・ヨークを中心としたライヴ活動を通じてウディ・ガスリーと友達になったり、ピート・シーガーとも知り合ったりするんですね。ジョーン・バエズやハリー・ベラフォンテもライヴを観にきたそうです。しかし1949年にALS(筋萎縮性側索硬化症)のため亡くなりました。奇しくもその半年後の1950年、彼のファンだったピート・シーガーがウィーヴァーズでレッド・ベリーの持ち歌だった「Goodnight, Irene」をカヴァーすると全米1位の大ヒットとなりました。ウィーヴァーズは都会的な洗練さを持っていたグループで、どちらかというとフォークの部類と目されていました。若き日のボブ・ディランを描いた劇映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』の冒頭に、ディランが病室のウディ・ガスリーを訪ねて「Song to Woody」を歌うシーンがありますが、その歌詞の中で、感銘を受けたミュージシャンとしてウディらと共にレッド・ベリーの名前も挙げていましたね。レッド・ベリーは確かにディランの原点の一つではあると思います。
「Goodnight, Irene」の少しあとに、1955年にはロニー・ドネガンが「Rock Island Line」という、やはりレッド・ベリーの持ち歌をカヴァーし、翌年にはイギリスで大ヒットとなりました。アクースティック・ギター、ダブル・ベイス、ウォッシュボードという、言ってみればロカビリーみたいな編成ですが、当時はまだそのジャンル名は普及していません。初期のエルヴィス・プレスリーとちょうど同時期に、イギリスで似たようなことをやっていたわけです。この大ヒットは、イギリス中の若者にギターを持たせ、スキフルと呼ばれ始めた音楽のブームを巻き起こしました。その影響を受けたバンドの一つがジョン・レノンのクォリーメンだったのです。だからある意味、レッド・ベリーがいなければロニー・ドネガンはいなかった。ロニー・ドネガンがいなければビートルズはいなかったと言えるかもしれません。
レッド・ベリーは他にも、彼が作った曲ではないけれど、「Midnight Special」や「Cotton Fields」など、のちに有名になる曲をレッド・ベリーはたくさん歌っていたんですね。刑務所の受刑者たちが歌っていたという「Midnight Special」は、夜中に近くを通る列車のライトが格子ごしに当たる受刑者がいたら、その人は釈放されるという伝説を歌ったものです。多くの人がカヴァーしていますが、いちばん有名なのはCCRでしょうか。また、フォーク・ソングとして有名な「Cotton Fields」はビーチ・ボイズのヴァージョンでも知られますが、これらのルーツはレッド・ベリーです。『ロックの礎を築いた男:レッド・ベリー ビートルズとボブ・ディランの原点』は、音楽好きなら絶対に知っておくべき人物について、ゆかりのある人たちのインタヴューを交えてその生涯を綴ったものです。ピート・シーガーらミュージシャンのコメントもたくさんあって映画としてとても面白い。この手のドキュメンタリーには珍しく、音楽そのものもかなり使われているのもいいですね。お薦めの映画です。
ちなみに、レッド・ベリーの音源は、例のアメリカ議会図書館の録音も結構出ているし、40年代に録音されたものはニュー・ヨークのレーベル、フォークウェイズ(Folkways Records)などにも残されています。力強い歌と、上手に操る12弦ギターは説得力があり、魅力的な音楽です。名前は知っているけど……という音楽ファンも多いと思いますが、ぜひこれを機に聴いてみてください。

映画『ロックの礎を築いた男:レッド・ベリー ビートルズとボブ・ディランの原点』(公開中)
◎監督:カート・ハーン/出演:レッド・ベリー、ピート・シーガー、ハリー・ベラフォンテ、B・B・キング、ジョーン・バエズ、アンナ・ローマックス・ウッド、アーロ・ガスリー、バーニス・ジョンソン・リーゴン、オスカー・ブランド、クイーン・”タイニー”・ロビンソン、ラリー・リッチモンド、マイケル・タフト、クリストファー・ローネル、ジェフ・プレイス、オデッタ 他◎2021年/アメリカ/80分/カラー/ステレオ◎字幕監修:ピーター・バラカン、朝日順子◎配給:NEGA ©2024 House of Lead Belly











Recommended Albums
アヴェレッジ・ワイト・バンド /
Average White Band『AWB』
朝の生放送でもよくかけた
「Work to Do」収録アルバム
さて、ここからは僕の“来日50周年ベスト・アルバム”の続きを。まずは来日直後の1974年のアルバムから始めます。ざっと選盤しただけで何100枚にもなってしまうから(笑)、その中から絞り込むのは本当に大変なのですが……今日はアヴェレッジ・ワイト・バンドの『Average White Band』(1974年)からいきましょう。
日本に来た年に出たこのアルバムを、僕はイギリス盤と日本盤の両方を持っています。ロンドンで買ったレコードは持ってこられなかったから、東京でもう一度買い直したんでしょうね。とにかく、めちゃくちゃ好きなアルバムです。『AWB』は2作目ですが、デビュー・アルバムの『Show Your Hand 』(1973年)も、ロンドンのレコード店で働いていたときに聴いてすごく好きになりました。当時はまさかこれがイギリスのバンドだとは思えないほど、すごくファンキーなノリでしたから、スコットランド出身だと知って、本当にビックリしました。1作目はMCAでしたが、アトランティックに移籍して作った『AWB』は、ニュー・ヨークのアトランティック・スタジオとマイアミのクライテリア・スタジオで録音しています。プロデューサーのアリーフ・マーディンは、この手のポップなソウルというようなレコードを作るのがとても上手い人で、このアルバムも申し分のない仕上がりとなっています。初期はギター、ベイス、キーボード、ドラムズにサックスが二人という6人編成でした。何と言っても有名な曲はこのアルバムに収録された「Pick Up the Pieces」で、このインストゥルメンタルはアメリカのチャートでも1位を獲得しています。個人的にはアイズリー・ブラザーズ「Work to Do」のカヴァーがいちばん好きですね。朝の生放送だったラジオ番組「Barakan Morning」(interfm)をやっていたときは、この曲をよくかけていました。朝一番、番組を聴いて「よし、これから仕事だぞ」っていうノリで、もう何回かけたか分からない(笑)。あらためて「Work to Do」を聴いてみましょう。
いつ聴いても、このノリは素晴らしいですね。このバンドは言ってみれば、わりと万人受けするファンク・バンドだと思うんですよ。ヴォーカルは基本的にベイスのアラン・ゴリーとギターのヘイミッシュ・スチュアートが担当していて、この二人のハモり方もいいし、それぞれの持ち味がよく出ている。また、この曲でギター・ソロを弾いているオニー・マキンタイアもまた上手いんですよ。そして、ドラマーはロビー・マキントッシュですけれど、このアルバムを出したあとのツアー中に参加したパーティで、モルヒネとヘロインが混ざったものを誤って与えられ、亡くなってしまうんです。これは本当に悲劇としか言いようがないことでした。そして、彼の代わりに加入したのはスティーヴ・フェローニです。二人とも本当に素晴らしいドラマーでした。

この次に出した『Cut the Cake』(1975年)もすごくいいアルバムだし、ライヴ盤にも『Person to Person』(1976年)というめちゃくちゃいいものがあります。この手のバンドの良さは言葉にするよりも、ラジオでかけたほうが一発で伝わります(笑)。これを読んでいる皆さんも、ぜひ聴いてみてください。
ライ・クーダー /
Ry Cooder 『Paradise and Lunch』
アール・ハインズ参加曲もあり!
シブい選曲も見事に仕上がった4作目
これも僕が1974年に日本にやって来た直後に出たアルバムですが、ライ・クーダーに関しては個人的にちょっと面白い出来事がありました。シンコー・ミュージックに入社して、おそらく最初の挨拶回りだったと思いますが、当時は六本木にあったワーナー・パイオニアに連れて行かれたときのことです。事務所の奥から突然、女性が出てきて「誰かライ・クーダーに詳しい人いない?」と言うんです。他に反応する人はいなかったから、「僕なら少しは分かるかもしれません」って(笑)。彼女が担当しているライ・クーダーのライヴのフィルムが届いていて、収録曲などの詳細について知りたがっていました。すでに彼のファンだった僕がたまたま居合わせたのも何かのご縁。一緒に観ながら曲ごとにちょっとだけ説明させてもらいました。で、ちょうどこのタイミングで出たのが『Paradise and Lunch』(1974年)で、確かそのライヴ映像にもこの中の曲が収録されていたんじゃなかったかな。そんなこともあって、思い出深いアルバムです。
ヒット曲がないわりに、たくさんのアルバムを出しているライ・クーダー。ファースト・アルバム『Ry Cooder』(1970年)を発表した70年代から80年代にかけてはレプリーズ(Reprise Records)とワーナー・ブラザーズからアルバムを出していましたが、この二つのレーベルはヒットに恵まれないミュージシャンも気長に抱えて作品を作らせていました。そうしたシブい面々には他のアーティストからもリスペクトが寄せられたりして、一種の「裏看板アーティスト」になっていました。いま思えばいい時代でしたね。ライは映画音楽でもよく知られていますが、それも実は自分のレコードがあまり売れないからなんです。映画のサウンドトラックはそこそこの予算が付くから、確かな収入になるわけです。
『Paradise and Lunch』はライの4作目です。いつものようにブルーズやフォーク、ゴスペルの曲を取り上げながら、ちょっと変わった選曲も見られます。「Mexican Divorce」はR&Bグループのドリフターズが歌っていましたが、バート・バカラックの曲なんですね。それにしてもこのアルバムの選曲はシブいですね。ローリング・ストーンズのカヴァーが大ヒットした「It's all over Now」を除けば、このレコードを買った人にとってほぼ初めて聴く曲ばかりだったのではないでしょうか。演奏はというと、もちろんギターは職人的でめちゃくちゃ上手い。彼のヴォーカルは好みが分かれるところかもしれないけれど、僕はわりと好きですね。
今日はアルバム最後の曲「Ditty Wah Ditty」を聴いてみましょうか。元はブラインド・ブレイクが歌っていた曲です。彼は1920年代に活動したブルーズ・シンガーで、やはりこういうラグタイムというか、フォークっぽいブルーズでフィンガー・ピキングを得意としていました。こうした奏法は、アメリカの南東部---カロライナやジョージア、フロリダで盛んだったんですね。時代としては1920~30年代まで続いたスタイルです。30代で亡くなったブラインド・ブレイクはその中でも絶妙なフィンガー・ピキングを聴かせ、いまだに彼を超える人はいないと思います。『Paradise and Lunch』ではライが自分の味わいでこの歌を披露しています。そして、この印象的なピアノを弾いているのはなんとアール・ハインズです。20年代にルイ・アームストロングのバンドでも活動したジャズ・ピアニストですから、このときは結構な歳だったはずですが、録音は1テイクだったそうです。転がっていくようなピアノは、ミスタッチも少しあるけれど、素晴らしい演奏です。この曲が作られた時代のミュージシャンをゲストに迎え、見事な仕上がりとなっています。
僕はいまもライ・クーダーがずっと好きで聴き続けています。彼の最新作は『The Prodigal Son』(2018年)で、久々に70年代の雰囲気を感じさせるアルバムでした。どうやら、彼の息子が「ファンが期待しているから出しなよ」って説得してくれたらしいんだけど(笑)、すごく良かったです。


ボブ・マーリー & ザ・ウェイラーズ /
Bob Marley & The Wailers
『Live!』
名曲ばかりの傑作ライヴ・アルバム!
大好きなボブ・マーリーはライヴ・アルバムを選びました。1975年の『Live!』 です。同年の7月18日、ロンドンのライシアムという昔からあるダンス・ホールで録音されたものです。ボブ・マーリーらのバンド、ウェイラーズは1973年に『Catch a Fire』でアルバム・デビューして『Burnin'』(1973年)、『Natty Dread』(1974年)と、少しずつその名前を浸透させていくんですが、この時点ではまだスターと言われるほどではありませんでした。イギリスでは結構盛り上がってきていましたが、シングルのヒットはないんですね。1974年にエリック・クラプトンが取り上げた「I Shot the Sheriff」は全米で1位になっているから、ボブ・マーリーはソングライターとして知られていたけど、当時のアメリカにはまだレゲエを聴く人はほとんどいなかったんです。アメリカの黒人でさえ、興味を持つ人は少なかった。1980年、マーリーがすでに癌に冒されていた頃にアイランド・レコードが大プッシュして最後のツアーをアメリカで行っていますが、本人の体力が続かず、中断を余儀なくされ、入院したのち1981年に亡くなりました。なぜかレゲエが流行らないアメリカに対して、アメリカと同じくジャマイカからの移民が大勢いたイギリスでは60年代からときどきジャマイカのレコードが流行ったりすることがありました。そんな中、ウェイラーズはこのライヴ・アルバムで大ブレイクを果たしたのです。
やはり、ウェイラーズはライヴ・バンドとしてピカイチでした。元々はボブ・マーリー、ピーター・トッシュ、のちにバニー・ウェイラーと名乗るバニー・リヴィングストンの3人によるヴォーカル・グループで、1961年頃からジャマイカで10年ほど活動していました。1972年にクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードと契約したことで状況は変わり始めます。ピーター・トッシュは白人と反りが合わなかったようで、クリス・ブラックウェルのことも気にくわない。『Burnin'』のあと、ジャマイカに帰ってしまいます。バニー・ウェイラーも寒くてラスタ料理が調達できないイギリスの生活に馴染めなかったようで、やはりジャマイカに戻りました。成功したいという気持ちが他の二人より強かったボブ・マーリーだけがロンドンに残って活動を続けました。まぁ、行ったり来たりはするんですけれど。それで3作目の『Natty Dread』からザ・ウェイラーズではなく、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズに名義が変わり、ウェイラーズはヴォーカル・グループでなく、ボブ・マーリーのバック・バンドとなります。新たにギターが入り、女性3人のバック・ヴォーカル“I Threes”も加わります。こうした新編成で臨んだライヴを収録したのがこの『Live!』なんです。名曲ばかりで、どれを聴こうか迷いますが、このアルバムで最も有名になったのは「No Woman, No Cry」でしょうか。この曲はオルガンのフレーズがキーとなっていて、これがあることで耳に残る。とにかく名演です。もんじゃ屋さんで聴くボブ・マーリーも、なかなかおつなものですね(笑)。

レゲエって、ルーツっぽいというか、洗練されてない音楽ですよね。それが魅力でもあるんだけど、ボブ・マーリーのレゲエは、このオルガンにしてもリード・ギターにしてもすごく洗練されています。共同プロデューサーのクリス・ブラックウェルが『Catch a Fire』のレコーディングからすでにちょっとした飾りを付けていたわけですが、これにはレゲエ・ファンの一部から批判もありました。でも、ボブ・マーリー自身は積極的に受け入れていたようです。この洗練されたテイストがあったからこそ、レゲエの人気が広がるきっかけになったと思います。まぁ、それでもアメリカの反応は鈍かったけれど(笑)。ただ、1999年の雑誌『タイム』では「20世紀最高のアルバム」にボブ・マーリー & ウェイラーズ の『Exodus』(1977年)が選ばれました。アメリカではそこまでヒットしていないはずだから、これにはちょっと驚きました。もちろん、世界中で最も愛されているミュージシャンと言えば、もしかするといまだにボブ・マーリーの名が挙がるかもしれません。歌詞の影響もあるけど、途上国ではものすごいヒーローですから。1981年の5月に亡くなってからもう44年が経ちますが、その影響力はいまだに健在と言えるでしょう。ボブ・マーリーがなぜ好きか? 嫌いなものがなぜ嫌いなのかはいくらでも話せるけど(笑)、好きなものを言葉にするのは難しい。いいものだから好きだとしか言いようがないんですよ。
トム・ペティ &
ザ・ハートブレイカーズ /
Tom Petty & The Heartbreakers 『s/t』
出版社としてプッシュするも
レコード会社の消極的な姿勢にがっかり……
次はトム・ペティのデビュー・アルバムで、1976年に発表された『Tom Petty & The Heartbreakers』です。つい最近、リマスター盤が高音質CD(SHM-CD)で再発されたところですが、当時から大好きなレコードです。かつて勤めていたシンコー・ミュージックが彼の楽曲の著作権を管理していて、このアルバムもアメリカから送られてきたんですが、当時はまったくの新人だったからまだ誰も知りません。でも、試聴してみたら「うわー、これはいい!」と。ものすごく好きになりました。シェルター(Shelter Records)というリオン・ラセルが持っていたレーベルから出たもので、日本での発売権は日本フォノグラムが持っていました。すぐに電話して、この新バンドの発売を促しましたが、僕は相手の反応に驚いてしまいました。日本フォノグラムの担当者に、「出すことは出すけど、プロモーションはできない」と、はっきり言われてしまったのです。理由は、彼のルックスにあるそうで、どうやら当時の日本では、ロックと言えば中高生の女子にウケるものにしか力を入れないということらしい。「男の子だってロックは聴くでしょ。彼らに対するアプローチがあってもいいのでは?」と思ったものですが……。実際、トム・ペティの日本盤は発売されましたが、プロモーションをしないからほとんど売れません。僕はもうがっかりしてしまいました。この国で音楽出版の仕事をしても、あまり意味がないんじゃないかと、そんなふうに思えるくらい残念な出来事で、当時の仕事の限界を感じるきっかけにもなりました。
ただ、意外なことにアメリカでもこのファースト・アルバムはそれほど振るいませんでした。むしろ、イギリスのほうで売れたんです。もしかしたら、革ジャン姿に銃弾のベルトをかけているジャケットが、ちょっとパンクっぽく見られたのかも。1976年はイギリスでパンクが盛り上がった時期ではあります。音は全然パンクじゃないんですけどね。まぁ、僕が好きになったということはイギリスで好まれるタイプのロックだったのでしょうか。実際にプロモーション・ツアーがイギリスで行われ、このアルバムも結構売れたんですね。すると、次のアルバム『You're Gonna Get It!』(1978年)が逆輸入的な感じでアメリカでもちょっと話題になって、3作目の『Damn the Torpedoes』に収録された「Refugee」が大ヒットとなり、以降のトム・ペティはずっと大スターであり続けています。個人的にはあのときの衝撃もあって、このファースト・アルバムがいちばん好きなんです。いま思い返しても、当時の日本のレコード会社の消極的なプロモーションの姿勢は解せないものがあります。確かに、あのときに日本で売れていたのはキッスやチープ・トリック、ベイ・シティ・ローラーズといったビジュアルな要素があるバンドだったけど、あまりにも安易すぎないかと思いました。もっとも、シンコー・ミュージックの雑誌『ミューシック・ライフ』も、この手のバンドはあまり取り上げていませんでしたが……。
では、アルバム中でいちばん有名な「American Girl」を聴いてみましょう。この12弦ギターが、どこか昔のバーズみたいな感じで、トム・ペティの歌い方も微妙にロジャー・マッグィンっぽい。彼は僕の一つ年上の1950年生まれだから、ビートルズやストーンズ、バーズあたりの影響は受けているはずで、それは1997年にサンフランシスコのフィルモアで敢行したライヴのセットリストを見ても明らかです。1ヵ月の間に20回も行われたこのライヴは、アリーナ規模の大きな会場を賑わせてきた彼らが、セットリストも含めてデビューした頃の自由な感じでやりたいということで実現したものです。このときの音源は、コンピレイションのボックス・セットに数曲が収録されたものの、ほとんど出回っていませんでした。それが2022年に『Live at the Fillmore, 1997』というタイトルで、通常エディションは2枚組CD(もしくは3枚組LP)、デラックス・エディションは4枚組CD(もしくは6枚組LP)という形態で発売されました。僕はデラックス・エディションを聴きましたが、これがまた素晴らしくてね。半数以上は1960年代のブルーズやR&Bなどのカヴァー曲で、ビートルズこそやっていませんが、ストーンズやバーズも取り上げています。彼らもライヴ・バンドとしてピカイチで、ロック・バンドの鑑と言えるでしょう。トム・ペティは残念ながら、2017年にこの世を去りました。慢性的な股関節などの痛みから鎮痛剤を多数服用していたらしいのですが、やがて中毒になり、過剰摂取で亡くなりました。本当に残念です。


スタッフ / Stuff 『Stuff』
結成のきっかけは
凄腕スタジオ・ミュージシャン同士の
ジャム・セッション
バンドというより、売れっ子スタジオ・ミュージシャンの集まりといった方がいいスタッフのファースト・アルバムです。主に日本で大きな話題になったグループで、当時はアメリカで知っていた人は少なかったと思います。1970年代の前半に、レコード・ジャケットの裏に参加ミュージシャンの名前が載るようになり、僕はわりとそのあたりを注目する人間でした。まったく気にしない人もいたと思うけど、多くの日本のリスナーは僕と同じタイプだったのではないでしょうか。細かいことに気を配る国民性があるからかどうかは分かりませんが(笑)。スタッフのメンバーはそれぞれ、いろんなアーティストたちの無数のアルバムに参加していて、その名前がクレジットされているのを見かけたと思います。リーダーのゴードン・エドワーズ(ベイス)、コーネル・デュプリー(ギター)、エリック・ゲイル(ギター)、リチャード・ティー(キーボード)、スティーヴ・ガッド(ドラムズ)、クリス・パーカー(ドラムズ)という熟練の職人ばかりです。お呼びがかかれば指定されたスタジオに出向いて、1本3時間ほどのセッションをこなすスタジオ・ミュージシャン。その場で渡される譜面を初見で演奏し、ユニオンで決められたギャラをもらいます。人気があって引っ張りだこの人はギャラが倍になったり、セッション・リーダーになったら3倍とか、いろいろあるわけですね。セッションは毎日のように行われ、午前中に1本、食事のブレイクをとって午後にも1本、もしかしたら夜にももう1本。こんな感じで自分がやりたい音楽かどうかは関係なく、職人的に演奏していくわけですが、そればかりじゃちょっと疲れてくる。そこでこの連中は深夜に営業しているニュー・ヨークのミケルズというレストランに集まってジャム・セッションしてみると「なかなかいい塩梅だな」と(笑)。そんなことをきっかけに、バンドとしても活動することになったんですね。
大部分がインストゥルメンタルで、あまり派手なことをやるわけでないんだけど、とにかくノリのいいアルバムで、僕にとっていまだに愛聴盤となっています。これもアメリカではあまり売れなかったようだけど、70年代によく聴いたアルバムというとすぐにこれが思い浮かぶ−−−それくらい好きでしたね。今日は、「(Do You) Want Some of This」を聴いてみましょう。リチャード・ティーのピアノ・ソロも素晴らしいですね。そもそも僕はインストゥルメンタルも歌ものも分け隔てなく聴く人間です。人によってはヴォーカルがないと寂しいという意見があるかもしれませんが、僕は全然そんなことはない。楽器も歌うものだと思っていますから。

このアルバムが出た1976年、彼らはこの年に開催されたスイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルにクリス・パーカーを除く5人で出演しています。このフェスでは演奏の多くが録音され、映像も残っています。当時、レコード会社にあった内覧用のヴィデオを観たのですが、本当に素晴らしいステージでした。ただ、このライヴは彼らにとってはなかなか大変だったようです。と言うのも、彼らが乗った飛行機が大幅に遅れてモントルーに着いたらしいんです。現地に到着したのはリハーサルも何もできないくらいギリギリのタイミングで、もうそのままステージ上がってすぐに演奏を始めなければならなかったとか。それにも関わらず、彼らは凄まじい演奏を披露しています。音源も出ていますが、DVDなどで映像もぜひご覧ください。
PB’s Sound Impression
店舗向けの天井スピーカーでもここまで鳴らせる!
「落ち着いて食事が楽しめて聴きやすいBGMですね」

「YAKIBEE」店主の内藤輝幸さん(右)と
——ここからはバラカンさんに、「YAKIBEE(やきべえ)」店主の内藤輝幸さん、そしてお店の音響のチューニングなどを手掛けたAcoustic Reviveの石黒謙さんにお話をうかがっていただきます。
PB まずはここのサウンド・システムについて教えてください。鳴っているのは、天井に埋め込まれたスピーカーなんですね。
内藤 そうです。一般的な商業用スピーカーで、アンプもそれほど高級なものではありません。ところが、Acoustic Reviveの石黒さんに電源周りや機材をチューニングしてもらい、ケーブル類にアコリバ製品を使うと劇的に音が変わりました。スピーカー自体はどちらかというとドンシャリ傾向の音なんですが、中域もしっかり出て柔らかい音になっていると思います。
PB そうですね。聴きやすい音でした。
内藤 店の改装にあたり、音響にはそれほど大きな予算はかけられなかったのですが、それでもここまでの音にできたのは石黒さんの力のおかげです。同時に、オーディオにとって電源の大切さも実感しました。
PB それまでは、電源やケーブルを意識したことはなかった?
内藤 はい。多少の変化があるらしいことはなんとなく聞いていましたが、まさかケーブル1本でこんなに変わるとは思っていませんでした。いい音は、いいスピーカーやいいアンプがないと出せないものと思い込んでいましたが、電源タップやケーブルを変えるだけでこんなに良くなるというのはかなりのカルチャー・ショックでした。
PB 分かります!(笑)
内藤 石黒さんのご自宅の試聴室で、フォープレイの「Chant」を聴いてみたら、2本のスピーカーとは思えないような空間が表現されるのにビックリしました。また、何100回も聴いているレッド・ツェッペリンの「天国への階段」は別の曲と思うほど生々しく、しかもこれまで聞こえていない音が聞こえてきたんです。「これは何なんだろう」と驚きまして、やはりい音楽はいい音で聴きたいと思うようになりました。音楽への向き合い方が大きく変化することになりました。
PB なるほど。ところで、このお店は何年くらい営業しているのですか。
内藤 27年前に義理の父が始めた店を、数年後に僕が引き継ぎました。
PB では、内藤さんになってからすでに20年以上が経つのですね。かつてはDJもしていたとか。
内藤 はい。子供が産まれてからはしばらくやってなかったのですが、最近また回してみたいなと思いまして、久々にレコードを買いに行ったりしています。
PB 最近はどんなレコードを?
内藤 バラカンさんもベスト・アルバムに挙げていらっしゃったマシュー・ハルソールの『An Ever Changing View』(2023年)とか。
PB ほう、マシューお好きですか。
内藤 はい。曲を聴いてもうドンピシャで。
PB それは嬉しいな(笑)。
内藤 久々に素晴らしいアーティストが登場したなと思いました。
PB お店でもかけていますか。
内藤 はい。BGMとしても結構合っていると思います。
PB そうですね。場が落ち着く感じがします。

「いい音楽をいい音で聴き続けると、仕事の効率も向上しますね」(内藤さん)
本場のクラブ文化を体験しにニュー・ヨークへ
PB DJに興味を持ったきっけかは何でしたか。
内藤 まだ10代の頃ですが、兄に芝浦のクラブ「Gold」に連れて行ってもらったことがきっかけでした。それ以来、クラブ文化にハマって、本場の音とラリー・レヴァンのプレイを聴きたくて19歳でニュー・ヨークに出かけたりしていました。
PB ニュー・ヨークのラリー・レヴァンというと場所は……。
内藤 常駐していた「パラダイス・ガラージュ」の閉店後は「シェルター」というクラブでも回していて。もう30年以上も前の話ですけれど、僕がラリーを観たのもシェルターでした。
PB もうハウスの時代ですね。
内藤 はい。ハウス・ミュージックが浸透し、ジャンルとして確立した頃です。
PB 踊るのが好きだった?
内藤 そうですね。あと、あのような空間で音楽がエンドレスに鳴り続けるという状況が好きでした。
PB 「Gold」は僕もピークを過ぎた頃だったけど、行ったことがあります。映画『戦場のメリークリスマス』でプロデューサーを務めたジェレミー・トマスが日本に来たとき、連れて行ってくれないかと頼まれたんです。湾岸のちょっと辺鄙なところにあって、やっとの思いで辿り着いたら、ドアの前の男に止められてなかなか入れてくれないんです。もうあきらめようと思ったところでなんとか入れてくれたんだけど、お客なんて数人しかいなかった。夜の9時くらいだったと思うけど、ちょっと早すぎたのかな。
内藤 そうですね。大体12時くらいから増えていって朝までというのが……。
PB そうか。健全な生活をしていた僕には考えられないね(笑)。
内藤 僕にとってサウンドに対する興味はそんなクラブ文化からの影響もありましたが、音質のことをちゃんと理解できたのは石黒さんとの出会いが大きいです。
シーリング・スピーカーで目指した高音質
PB お店のサウンド・システムを見直すようになったのはいつ頃からだったのですか。
内藤 4年に店内を改装することになりまして、音響については当店のお客様でもあった石黒さんに相談させていただきました。
石黒 常連というほどではないのですが、たまたま自宅が近くにあって、このお店には先代がやられている頃から来ていましたので、ぜひ協力させていただこうと。先代は焼き方に大変こだわりがある方で、上手く焼けなさそうなお客にはずっと張り付いていました(笑)。
内藤 そうでしたね(笑)。
PB 改装にあたり、音楽はどのように採り入れようと思ったのですか。
内藤 より食事を楽しめる空間にしたいという思いがありました。食事を楽しく演出するために何ができるか、という発想で。目指したのは「聴いていて疲れない音」です。

左はAcoustic Reviveの石黒謙さん

シーリング・スピーカーはフロア全体で8つ導入されている
PB 音楽はどんなふうに選んでいるのですか。
内藤 バーのようなお店とは違って食事がメインなので、それに相応しい曲を自分なりに選曲しています。お客様は音楽に詳しい方ばかりではないので、分かりやすい曲も入れたりしています。例えば1980年代のマイケル・ジャクソンやマドンナをジャズ風にアレンジしたものとか。
PB お客さんの層としてもそのあたりが響く人が多いですか。
内藤 そうですね。50代の方も多いです。
PB 音楽の話で盛り上がることも?
内藤 はい。音楽好きな方もよくご来店いただいています。また、最近は若いカップルのお客様も増えてきて。「なんか音がいいですね」と言っていただけることもあるんですよ。
PB ああ、気付いてくれるんですね。
内藤 そうなんです。お話の邪魔にならないよう、音量は抑えていますが、この空間全体で鳴っているのが耳にスーッと入ってくるのを感じてくださる方もいらっしゃいます。
石黒 音が良くなると、不思議と会話もしやすくなるんですよね。
——そのあたり、石黒さんはどんなポイントでチューニングしていったのですか。
石黒 店内に満遍なく、バランス良く音が広がるようなシーリング・スピーカーの配置を考えました。そして電源周りやケーブル類のクオリティを上げれば歪みが減っていきます。ノイズが乗ったり、歪んだりすると余計に音がうるさくなってしまい、会話も邪魔してしまうんです。とにかくそこを取り除くことを心掛け、音量が少なめでも聴きやすくて、上げても楽しめるようになりました。結果として、居心地のいい音響空間ができたのではないかと思います。簡単そうに見えて、シーリング・スピーカーでここまでやるのは実はなかなか難しいことなんです。
——天井のスピーカーはいくつあるのですか。
石黒 テーブルのある広いフロアに6つ、掘り炬燵のあるところに2つの計8発です。さらに、低域を補うためのサブ・ウーファーも導入しました。
PB ですよね。ウーファーがないと、さすがにこの低音は出ないんじゃないかと思ってました。
——音楽はモノラルじゃなく、ステレオで鳴っていますね。
石黒 はい。業務用の8chアンプを使ってステレオで鳴らしています。実はここも大事なポイントで、スピーカーの配置を間違えると位相がうねって気持ち悪くなってしまうのですが、どこで聴いてもステレオ感が得られるように工夫しています。位相が合えば、全体に囲まれつつ、ステレオ感も楽しめるんです。
PB なるほど。
石黒 それをもんじゃ焼き屋さんで実践できたのは面白い試みでしたね(笑)。
PB うん。音楽イヴェントもできそうじゃないですか。
内藤 はい、そうですね。
PB 店内の壁には素敵な写真が飾ってありますが、これは内藤さんのお兄さんの作品だそうですね。
内藤 はい。兄の内藤カツは40年以上前にアメリカに渡り、ニュー・ヨークのハーレムを拠点に活動しています。兄の写真はポートレイトが中心なのですが、この店のために、風景写真を中心に提供してもらいました。

どの位置で聴いても良好なステレオ音像が楽しめる
伊勢崎の「もんじゃ焼き」
PB ところで、群馬県の伊勢崎市で「もんじゃ焼き」って珍しいのでは?
内藤 実は伊勢崎は「もんじゃの町」と言われるほど、もんじゃ焼き屋さんがたくさんあったんです。
PB そうなんですか。
石黒 このあたりでも、昔は駄菓子屋には必ず鉄板があったりして、子供のおやつとしても親しまれていました。小麦の食文化が盛んな土地で、小麦粉を使った焼き饅頭や「もんじゃ」などを食べる習慣が根付いていました。もんじゃと言えば東京の月島が有名ですが、疎開で群馬あたりに来た人がこれを覚えて持ち帰ったという説もあるくらい、昔から多くの家庭で食されていました。ただ、昔は「もんじ焼き」と言っていたんです。
内藤 小麦粉を水で溶いたものを、鉄板に文字を書きながら焼いたスタイルがルーツだったようですね。
PB もんじゃを美味しく焼くコツは?
内藤 昔のもんじゃは具材が少なかったので土手をつくる必要はなかったのですが、いまのもんじゃは土手をつくって火が通りにくいものから加熱していくのがセオリーです。焼くときは強火で、焼き上がったら弱火にして美味しいうちに食べるのがコツですので、2人よりも4人とか、大人数のほうがより楽しんでいただけると思います。
石黒 私はいつもダムを決壊させてしまうんですけれど(笑)。
——バラカンさんは、今日のもんじゃ焼きやお好み焼きといったいわゆる“粉もの”はよく召し上がりますか。
PB 僕は小麦粉の食文化で育った人間だから、パンはほぼ毎日食べています。何10年か前にニュー・ヨークでベーグルに出会って好きになり、朝食の定番になりました。お好み焼きやたこ焼きはたまにいただくけど、もんじゃ焼きはあまり食べる機会がなかったので、今日は楽しみにしています(笑)。
内藤 お口に合うか分かりませんが、ぜひお楽しみください。バラカンさんはシラスがお好きと伺って、ちょうど季節メニューの「シラスもんじゃ」もご用意しました。
PB それは嬉しいですね! ありがとうございます。
——では最後にお店のPRを。
内藤 日本一音がいい、もんじゃとお好み焼き屋を自負しています。サウンドと同様に食材にこだわり、多国籍なお料理と融合させるなど、もんじゃの可能性に挑戦しています。初めていらっしゃる方がハッとするような面白いメニューも揃えていますので、伊勢崎にお越しの際はぜひお立ち寄りください。
石黒 もんじゃ焼きの進化形が楽しめます!

取材を終えて季節メニューの“シラスもんじゃ”を堪能するバラカンさん。「これはおいしいですね!」


テーブル席のある広いフロアは6つの天井スピーカーでカヴァー

掘り炬燵の一角にも2つの天井スピーカーが埋め込まれている

白と黒を基調とする落ち着いた内装に、写真家・内藤カツさんの素敵なモノクロ作品が映える

厨房のそばに設置されている音響機材のラック。DAコンバーターのSMSL VMV D1、TOPPING D10s。スプリッターとして使用しているステレオ・ディストリビューターART MX225など

オーディオ・グレードのコンセント&インレットを採用する電源ボックスYTP-6RとYTP-4R、高性能電源ケーブルPOWER STANDARD TripleC-FMなどAcoustic Reviveのオーディオ・アクセサリーを多数使用。音源を送り出すMacBookには同ブランドのUSBケーブルR-AU1-PLが接続されていた

パワー・アンプは4ch仕様のLAB.GRUPPEN FP20000Q、CLASSIC PRO CP4100を使用

天井埋め込み型スピーカーは高音質かつ耐久性の高いBOSE DS16F

レコーディング・スタジオにも採用されるAcoustic Reviveの超低周波発生装置RR-777が設置されている

フロアの中央には低音を補強するサブ・ウーファーVictor SX-DW7も


好物の日本酒を物色中

右からAcoustic Reviveの石黒さん、小林貴子さん、バラカンさん、YAKIBEEの内藤さん、奥様の美華さん、お店の音楽アドヴァイザーの松島隆之さん
◎Today’s Playlist
①Average White Band 「Work to Do」〜『AWB』
②Ry Cooder 「Ditty Wah Ditty」〜『Paradise and Lunch』
③Bob Marley & The Wailers 「No Woman, No Cry」〜『Live!』
④Tom Petty & The Heartbreakers 「American Girl」〜『s/t』
⑤Stuff 「(Do You) Want Some of This」〜『Stuff』

◎この日の試聴システム
スピーカー:BOSE DS16F
サブ・ウーファー:Victor SX-DW7
パワー・アンプ:LAB.GRUPPEN FP20000Q、CLASSIC PRO CP4100
DAコンバーター:SMSL VMV D1、TOPPING D10s
YAKIBEE(やきべえ)
伊勢崎名物のもんじゃ焼きはもちろん、お好み焼きに広島焼き、たこ焼きもすべてのテーブルで楽しめる。豪華な鉄板焼きを含んだコース料理も提供中。
〒372-0801 群馬県伊勢崎市宮子町2873
Tel.0270-23-0500
営業時間:◎火曜~金曜: 11:30~14:30 (料理L.O. 13:50 ドリンクL.O. 14:20) 17:30~22:00 (料理L.O. 21:20 ドリンクL.O. 21:40)◎土曜、日曜、祝日: 11:30~15:00 (料理L.O. 14:20 ドリンクL.O. 14:40) 17:00~22:00 (料理L.O. 21:20 ドリンクL.O. 21:40)
定休日:月曜・第1火曜
https://yakibee.owst.jp/

